独習のリスク

近頃の若い人が、これをやって頂戴と言われ、「そういう訓練と教育は受けていませんから」と平気で拒絶することに、ど肝を抜かれるほど驚いた経験がある。

Letter from Yochomachi:NHK;パラオの鉄砲魚……めちゃくちゃオモロカッタ!


世の中の大抵のことは独習できるし、教えてもらうにせよ一定から先は結局、独習する意志、能力が必要になります。だから独習というか、自力で調べて解決していくことの大切さを否定はしません。
呉智英氏に著書に紹介されていた「数学の天才」の話があります。たしかこんな話です。


戦前、とある農村の学校に教師が赴任しました。そこで生徒の男の子に数学の才能があることを見いだします。教師は男の子に進学を勧めます。男の子も勉学を続けたいと望みますが、進学率の低かった時代ですし、貧しい農村ということもあって両親の同意も得られず、断念せざるを得ませんでした。
それから十余年が過ぎ、ある時その教師のもとにかつての教え子から手紙が届きます。
「進学こそできませんでしたが、先生のおかげで数学のおもしろさを知り、その後も仕事の合間にこつこつと独学を続けました。そして最近、ある数式を発見したようなのですが、先生に見ていただけないでしょうか」
概ね、このような内容の手紙でした。それに書かれていた、かつての教え子の「発見」を見て教師は愕然とします。たしか二次方程式だったか、進学さえしていれば初等で教わることだったからです。教師はひたすら後悔します。自力で方程式を「発見」した男の子は間違いなく天才でした。ただその発見にはすでに価値がなかった。


1から2へ進むのと、10から11へ進むのでは同じ1段階でも難易度が違うのはたしかです。それでもこの話に出てくる生徒は、進学して教育を受けていれば「10」の段階までは押し上げてもらえたわけです。1から2の段階へ自力で上がるのは賞讃されるべき努力でしょう。ただそれにはあまり意味はない。
まして組織であればなおさらです。「自力で解決できる力を身に付けて欲しい」、「始めから受け身になることを身に付けさせたくない」などの意図はわかります。ただ、独力で何かを工夫していこうと言う意志がある人間は、どんな状況でもそうすると思うんです。「10」まで教えれば、そこから「11」へとそれを進歩させるでしょう。独力で打開しろ、身に付けろと放置して、1から2へ、2から3へ、と費やす時間はお互いに浪費です。
それでも企業なんかで、そのような指導をする上長が多いのは何故でしょう。「自分が駆け出しのころ、そうやって仕事を覚えたから」、「自分の時は、だれも手ほどきしてくれる人なんていなかった」。大概そんな理由のように思います。

独習の悪いところは、我流ゆえに必ずしも正しい方法ではないことです。当面の問題を解決するために編み出した策でしかないかもしれない。そんな我流の基礎を積み重ねてもゆくゆく歪みが大きくなるでしょう。なので、むしろ一定のところまではきっちりと教育を与えるべきだと思います。応用力のある人間はそれらをちゃんと応用していくし、そこまで材料や素養を与えてあるから「応用」ができる。何もない状態では応用しようがありません。
散人先生の取りあげた「そういう訓練と教育は受けていませんから」が、どういう状況で使われたかにもよりますが、以上の理由で一概に問題のある反応だとは言えないと思うんです。
(初出:2007.8.20.Mon)


[参照]opeblo:「自分は努力したから、お前達も努力すべきだ」的思考