ぶぶ漬けメソッドの合理性

前の記事で、京都の「ぶぶ漬け伝説」をとりあげて、「初心者向けのインターフェイスじゃないかもしれない」と書きました。発信する側のみでなく、受ける側にも察する能力が必要になる。昨今の用語で言えば”リテラシー”でしょうか。この婉曲な手法は、京都人のある種の陰険さの例にされたりしますが、まったく違うような気がしてきました。


よそ宅におじゃまして、つい過ごしてしまった頃、「ご夕飯どうされます?」とたずねられたらどうでしょうか。
おそらく多くの人は「要らない」と答えると思います。遠慮してそう答える人もいるでしょうけど、それよりもよその家庭料理なんて、そう食べたいとは思わないのでは。そこの家がちょっとした料理屋を営んでいるとか、民宿だとかならともかく、ただの他所宅の家庭料理なんて、そこまで進んで食べようとは思いません。あまりくつろいで食事もできないし、口に合わないかもしれません。しかし自分の家、あるいは食堂でなら「不味ければ食べない」でいいですが、他所宅となるとそうもいきません。
そう考えていくと、「ぶぶ漬け召し上がりますか」と聞けば、かなりの高確率で「要らない」という反応が期待できます。これは「お泊まりになれるよう、お布団ご用意しますね」とかでも同様です。
ぶぶ漬けだけ断っておいて、そのまま居座り続けるとか、「どうぞ召し上がってきて下さい。私待ってますから」と答える客もまずいないでしょう。つまり、ぶぶ漬けを断らせることは、そのまま帰らせることと直結しているわけです。


かなり相手のリテラシーに依存した方法ではないかと、はじめは考えていたのですが、まったくそんなものじゃありません。「空気嫁」とかよりもはるかに確実ですし、相手の察しの良し悪しにはそれほど依存していません。こちらの本意を察しなかったとしても、相手を帰らせる方向へ仕向けることはできます。
「そろそろ切り上げますか」と水を向ける頃合い、言い方には気を遣うものです。「もう帰って下さい」と言えば分かりやすいですが、いささか表現が直截的すぎます。その点、「ぶぶ漬けメソッド」は実に合理的で、この上なくエレガントな方法ではないでしょうか。
(初出:2007.8.5.Sun)